ボレロ

新しいアルバムの作業がようやく終わりそうなこの頃、定まらない気温に対して半袖なのか長袖なのか判断がつかない。思い返せば僕は24,5回も9月を経験しているはずなのに、9月になると毎年まるで初めての出来事であるかのようにおろおろしてしまう。太陽が昇って、沈んで、また昇るまでを1日と呼び、それを約30回繰り返すあいだを1ヶ月と呼び、1ヶ月を12回繰り返すあいだを1年と呼ぶ便宜的な定義も、昨日のばんごはんすら覚えていないような鈍感な人間にとってはまるで意味がない。

いつの日かインフルエンザにかかってることに気がつかなかったことがあるくらい僕は鈍感な人間で、放っておけば深刻な問題になるまでいろんなことに気がつかないでいてしまうので、それを誤魔化すためにジョギングをするようになった。体を動かすとなんだかあらゆることに敏感になる気がするから。気がするだけ。めちゃくちゃ短絡的な考え方だし実際に敏感になっているのかはわからないけど、それでも普段は気がつかないことに気がついたりする。街の中にはいくつものリズムが潜んでいて、走っているとそれが浮き彫りになること。川の波打つ様だとか、等間隔に立つ街灯だとか、そういうものにはリズムがあって、自分の動くスピードがBPMだとすると、一定のBPMを保つことによってリズムがみえてくること。

イヤホンをつけて音楽を聴きながら街を眺めていたら、誰とも共有していないはずのイヤホンから流れる音楽のリズムと、目の前を歩く人間の歩幅のリズムがぴったり合致する瞬間があった。そのときはとんでもない瞬間に相見えてしまったような気がして、目の前を歩くその人となら至上福祉に至れるのではないか、なんて感じてしまったのだけど、けっきょく合致してるのなんてほんのわずかで、次の瞬間にはバラバラになった。誰かとわかりあいたいと思う。そのためには誰かと自分とのあいだで共通するリズムを探さなければならないと、なんとなく気がついた。

反復するものをリズムと呼ぶのであれば、暦の上を反復しながら生きる僕らはリズムそのものなのかもしれない。1日、1ヶ月、1年をハードル走のように跨ぎながら、同じだけ区切られた日付を何度も繰り返す。誰かに向けた音楽を作るためには、誰しもが当たり前のように飛び越えているハードルを、同じようにひとつずつ飛び越えていくのが大事なんだと、そんな当たり前のことに最近気がついた。鈍感だから。