レオパードゲッコー

今歌詞を書いている。あまり進展しないのでブログを書いてみることにした。

自分にとって当たり前であることが他人にとってもまた同じではない。ちょっと考えたらすぐにわかることだけど気を抜くと忘れてしまう。何でこんなことがわからないんだろう?と本気で疑問に思い、怒りが湧いてくるのを抑えられないことがままある。
むかし僕が学生だったころは、所謂「いじめ」というものに今より密接な環境にいたので、その構造についてよく考えた。学校のような閉鎖的な空間にいじめはつきものだ。そしていじめられるのは他人に「何でこんなことがわからないんだろう?」と思われる人間だった。
トロい、歩き方や喋り方が変、共同生活に対するリテラシーがないなど、理由は様々だけど、けっきょく標的にされるのは大多数が当たり前にできることができない人間だった。そういう人間は「皆ができてる簡単なことが出来ない、つまりそんな些細な努力すらできない怠け者で馬鹿なんだ」と解釈されてしまう。ひとつの解釈はいずれ共通認識になり、常識になり、最終的には「こいつは叩いてもいい」という免罪符になる。その免罪符を盾に私刑が行われる…というのがいじめの基本的な構造だと思うのだけど、考えるたびに「これは無くならないよなあ」と悲観的な気持ちになる。
学生当時から「当たり前のことをやってたらいじめられない」という言葉をよく聞いたけど、それはつまり「適合できないやつは死ね」と言ってるようなもので、根本的な解決には繋がらない。いじめられるような人は当たり前のことが理解できない。これは資質の問題であって当人の努力云々ではどうにもならない。
僕は音楽を仕事にしているけど、音楽を作るには資質と適正が必要な部分が大きい。自分に対して自ら資質があると言ってしまいたくはないけど、他人に対して何故これがわからないんだろう、出来ないんだろう?と感じることは多い。自覚なく相手を傷つけてしまったことも沢山あっただろう。環境に適応できない者はあっけなく振るい落とされて忘れられていく。そういう露骨な環境に身を置いているからか、「振るい落とされた者」のことをよく考える。彼らはどうしたらいいんだろう。振るい落とされた者のための受け皿はどこにあるんだろう?

思うがままに書いたらとりとめのない文になってしまった。歌詞にもどる。