歌詞を書いてる。歌詞。こういう正解が捉えづらい作業はただひたすら手を動かしていればいいものでもないので、思い浮かばない時は身体的な全ての機能がストップしてしまう。そういう時はひとえに遊んだりすることも大事なのだが、それを見るにつけ「あいつは仕事を放棄している」と勘違いされてしまうのは悲しい。端から見るとどっちも同じだからそれは勘違いされても仕方がないのだけど、自分としてもこの遊びが生産的なものなのかどうかという内省を続けながら遊ばなきゃいけないので、結局頭のなかではいろんなことを考えていてうまく遊べなかったりする。「何も考えない」というのは健康的に創作を続ける上でけっこう重要な能力だと思う。ある程度の楽観的視点を持っていないと心身がもたない。というわけで僕はいまほとんどオートマチックにこの文章を書いている。ガッシャンガッシャン。皆さん元気ですか?いまオートマチックという言葉からサイバーパンクっぽいロボットがカタカタキーボードを打ってる姿を連想したんだけど、昨今のAI技術の興隆からしてロボット=無機的というイメージも古くなってきているのかもしれない。いや、そんなに知らないけれど。感情というものの正体も早く解明されてほしい。言語化が不可能な領域を人間はまだ持っていて、そういう混沌の空間が芸術の領域として守られているのだろうけど、そこらへんをなんかエーアイとか機械とかにこじ開けられたらどうなるだろう?いま僕らが必死こいて作ってる音楽も、ボタンをポチっと押すだけでその日その時の気分に合ったものを一瞬で自動生成できるような未来を想像する。そういうのを見て自分はどう思うだろう?こんなもん音楽じゃない!と思うだろうか?なるほどこうなったか〜と好意的もしくは自然なものとして受け入れられるだろうか?だいたいの人間は思春期に存在したテクノロジーを自然なものとして扱い、それ以降に登場したテクノロジーは自然の摂理から外れたものとして扱う傾向にあるらしい。レコードの音は暖かく、MP3の音はくだらない(それがいい悪いとかいう話ではなく)。絶対的な点数が出るわけでもなく、その大部分を好きか嫌いかで判断しなくてはならない芸術の領域は、そもそも優劣が存在しないと勘違いされがちだ。設定されたコンセプトをいかに精密に再現できるか。優れた批評の目を持っていないとそもそものコンセプトを見誤ってしまう。青い絵に「この絵は赤くないから駄目だ」と評価してしまう。そうならないためには、ある程度の教養と、作家であると同時に批評家としての側面も持ち合わせていないといけないんだけど、わたくしまともな教育を受けていないので呆然としてしまう瞬間がよくある。その昔まだ自分が小さいころ、親が近所の人に「うちの息子は全然駄目で〜」みたいなことを言ってる姿を見て、お前が育てたんちゃうんか、と憤ったことを憶えている。それ以来こういう謙遜文化は悪だなと思うようになったので、自分が作った音楽にはいつだって胸を張って「美しい」と言ってやろうと思っている。むろん美しくないものを出してるつもりもないけど。なんの話をしてたっけ?多分このブログめっちゃ読みにくいな。