drunk

お酒を飲むのが好きです。暇があれば飲む。誰かといる時はもちろん、一人でいる時も飲む。家の冷蔵庫のドリンクホルダーにはだいたいビール瓶がビッシリ詰まっており、それ以外に入っているのはいつ使ったのかも定かではない味噌1パックのみ。肴はいらない。とにかくビールかウイスキーか日本酒があると嬉しい。痛風や糖尿病など飲酒に伴う病がたまに恐ろしくなるくらいにはお酒を飲むのが好きです。

仕事で初めて会った人にお酒を飲むのが好きだという話をすると意外がられる。飲酒は人とのコミュニケーションを前提とした行為であるという認識と、相手が持つ僕自身のイメージがあまり一致しないのだろう。お酒を飲んで誰かとワイワイしてる姿が想像できないと言われたこともある。そこらへんに関しては、僕のことをよく知っている人と、僕を僕の音楽でしか知らない人との間で少なからぬ認識の違いがあると思うのだが、確かに自分の音楽にはあまりそういう匂いを感じない。

このあいだ友人と飲んだ時、野坂昭如と中島らもが好きだという話をした。いうまでもなく彼らからはお酒の匂いがする。酔っ払った野坂昭如が大島渚と殴り合いになる映像はいつ見ても面白いし、中島らものエッセイは素面で書いたのかどうか疑わしい。彼らと本質的に同じ人種であると感じることはあまりないけれど、どこか破滅的な言動の中に共感を覚える節は確かにある。

思うに、弱っちい精神と飲酒は相性が良すぎるのだ。例えば将棋や囲碁において、熟考の末に指した一手が熟考ゆえに悪手となる展開はよくあることだけど、思考を凝らしすぎるとイメージはどんどん濁っていき、抽出すべき文脈を見失ってしまう。考えなくてもいいことをあれこれ考えて自意識でパンッパンに張り詰めた脳みそから、まるで栓を抜いてビーチボールを萎ませるように、余計な自意識をお酒は逃がしてくれるのだ。脳みそがピューっと萎んで単純になれば、重要ではない細部に囚われず、たどり着くべき目的を見失わずに済む。そしてこれは構造だけ見れば眼鏡と似てる。レンズを通すことで衰弱した視力を補完する眼鏡と、過敏な神経を麻痺させることで感じるべきものに焦点を合わせることができるお酒。逆眼鏡。

複数の何かに少しずつ依存しながら生きて行くのが生活なのだとしたら、ある面で僕はお酒に依存しながら生きているのだろう。ちょうど眼鏡がなければ生活がままならない人と同じように。依存という言葉を使うとなんだか病的なニュアンスを孕んでしまうし、酒飲みは総じて野坂昭如や中島らものように破滅的な人間なのだ、という偏見も確かにあるみたいだけど、用法用量さえ守ることができれば(これがいっとう難しいのは百も承知だが)素敵な隣人として付き合っていける筈なんですよね。

お酒を飲むのが好きです、から先は何も考えずに書いたらこうなった。こんなことが書きたかったのかどうかは自分でもわからない。一応素面で書き連ねたけれど、この文章が酒飲みの自己欺瞞になっていないことを切に願う。