あるところに、一人のカリブーがいました。
カリブーは会社に勤めていて、とても忙しい毎日を送っていました。
来る日も来る日も、時計を見つめては、会社と会社をいったりきたり。
カリブーは悩んでいました。
どれだけ働いても、続いていくのは同じような毎日。
どんどん過ぎていく時間、残っていく疲労。
会社で任される仕事も増え、眠る時間が減り、自由に過ごせるあいだはもう殆どありませんでした。
そんなカリブーには、恋人がいました。
艶やかに伸びた髪と、どこか憂いを帯びた目をしている人でした。
恋人は言いました。
「あなたは誰かの痛みを知ることができる、とても優しい人よ。
だからこそ自分を深く傷つけてしまう。
もしあなたが仕事を辞めたとしても、私は何も変わらないわ。
いつもと同じように、ふたりで過ごしましょう」
カリブーの毎日は辛いことばかりでした。
けれど、恋人と一緒にいるあいだだけ、カリブーは救われた気持ちでいることができました。
カリブーは幸せでした。
或る日の朝のことでした。
カリブーは大急ぎで道を走っていました。
連日の無理のせいで、大きな寝坊をしてしまったのです。
今日は大事な会議のある日。
始まるまでもう時間は殆どありません。
「あ!」
バラバラ。
カリブーが気付いた頃には、もう既に鞄から荷物が飛び出していました。
急ぎ過ぎて、鞄をちゃんと閉めてなかったことに気がつかなかったのです!
カリブーの大事な書類が地面に散らばってしまいました。
カリブーは茫然と立ち尽くしました。
急いで書類を拾い集め、もう一度走り出せば、まだ会議に間に合うかもしれません。
けれど、カリブーの体は石みたいに硬く、ぴくりとも動かなくなってしまいました。
「僕はいったい、どうしたらいいんだろう。」
カリブーの頭の中は真っ白になっていました。
「やあ、お困りのようだね。」
そんなところに、見ず知らずのにわとりが一人やってきました。
ぷっくりと太ったお腹を携え、陽気な声でカリブーに話しかけました。
「手伝おうか?」
カリブーは足元に散らばる自分の書類が恥ずかしくなりました。
「君は大きな不幸を持っているみたいだね。」
何も言わず書類を拾い集めるカリブーに、にわとりは言いました。
「君の不幸を取っ払うことが、私にはできるんだけど。」
カリブーはにわとりの意味深な言葉に、少し興味を惹かれました。
「どういう意味?」
「その角さ。」
にわとりは、カリブーの頭に生えている二本の角を指差しました。
「その角があるから、君は不幸を感じてしまうのさ。
言わば、その角は不幸の源なんだよ。」
「不幸とは恐怖だ。例えば君は深い谷の上で綱渡りをしているとする。
一歩踏み外せば、淵の底へと真っ逆さま。
それっきり、もう元居た場所には戻れない。
険しい修羅の道を進むことになってしまう。
君は恐怖を覚える。」
「不幸とは苦痛だ。例えば君は大きな岩石に踏みつぶされているとする。
抜け出そうともがけばもがくほど体はつぶされていき、そのたびに激痛が走る。
次第に呼吸をすることすらままならなくなってくる。
頭で考えられることは痛みと苦しみだけだ。
君は苦痛を覚える。」
「不幸とは悲哀だ。例えば君は小さな檻の中で一人閉じ込められているとする。
何の刺激もない、平坦な毎日を強いられるんだ。
味方はいないし、敵すらもいない。いつまでたっても一人だ。
君は悲哀を覚える。」
「人は誰だってそんな不幸を感じていたくはない。
出来る限り幸せに生きたいものだ。そうだろう?
不幸でいていいことなんてない。」
「しかし考えてみてくれ。
不幸とは誰が作り上げるんだ?
そりゃ原因は色々かもしれないけれど、不幸を感じているのは他ならぬ自分自身だ。
それはつまり、『不幸を作り上げるのは自分自身だ』という風にも言えるんじゃないか。
「君より恵まれていない境遇の人たちがいる。
君から見ればそいつらは不幸そのものだろう。
けれど、そいつらはそいつらの感じる毎日を生きている。
君から見て不幸なことも、そいつらから見れば不幸でもなんでもない、ただの日常だったりするんだ。
君が不幸だと感じてしまうから、不幸は生まれてくるんだよ。」
カリブーは沢山のことを考えていました。
これまでの毎日、幸せだったこと、不幸だったこと。
足元に散らばった書類、もう間に合わないであろう大事な会議。
恐怖、苦痛、悲哀。
カリブーの目は遠くを見ていました。
「角を抜いてしまえばいい。
そうすれば、君の頭は不幸を感じ取らなくなる。
不幸だと感じさえしなければ、君はいつまでも幸せでいられるんだ。
なんてことはない、君は自由にどこへだって行ける。」
「どこへだって。」
それからカリブーは、人が変わったみたいに明るくなりました。
つまらないことでいちいち悩まなくなり、眠る時間も増えました。
頭にはプラスチック製の角を乗せていました。
カリブーの気持ちは晴れやかでした。
以前の自分があんなに苦に思っていたことが嘘みたいに思えて、 実際、悪い夢だったんじゃないかとさえカリブーは思いました。
以前ほど仕事は任されなくなりましたが、カリブーは全く気にしていませんでした。
「角を取って本当によかった。」
それから或る日、カリブーは仕事帰りに、恋人とふたりでレストランに食事に来ました。
いつものようにふたりは何でもない話をしました。
カリブーはふたりでいるときも、よく喋るようになりました。
会社でのこととか、趣味のこととかを、面白おかしく話しました。
もともと無口な恋人は、いつもみたいにカリブーの話を聞いていました。
「ねえ。」
恋人が小さく口を開きました。
「私たち、もう別れましょう。」
突然のことに、カリブーは驚きました。
そんな冗談を言うような人ではなかったので尚更です。
「どういうことだい?何をそんな・・・。」
「わからないのね。」
恋人は目から涙を零しました。
「あなたは変わってしまったわ。
私の痛みを知らないもの。」
恋人の声は小さく、けれど想いの詰まったものでした。
「さようなら」
恋人は席を立ち、カリブーが呼び止める間もなく、レストランから出て行きました。
カリブーは茫然としていました。
カリブーはいつかみたいに色々なことを考えました。
今までの毎日、恋人と過ごしてきた時間。
自分の何が気に入らなかったのか、はたまた恋人が変わってしまったのか。
答えが出ないまま、カリブーは恋人が出て行った扉をしばらく眺めていました。
そして言いました。
「ま、いっか。」
カリブーはテーブルの上のコーヒーを一気に飲み干しました。
「こんなこともあるさ。振られたのなら仕方がない。
うだうだ考えるのはやめにしよう。」
カリブーはとても前向きでした。
しばらくして、カリブーも席を立ちました。
そしてポケットから携帯電話を取り出して、何処かへ電話をかけました。
出たのは女性でした。
「もしもし、久しぶりだね。今暇かい?」
カリブーはレストランを後にしました。
カリブーは幸せでした。
あとがき
徳島の実家で何となく描き始めたら、36ページにもなってしまいました。
初めて絵本のようなものを描いたのですが、楽しかったです。
起伏の無い、のっぺりしたものにしたかったので、登場人物は3人だけです。
彼女は生まれることになりました。
彼女が生まれるまでのあいだは、もう長くありませんでした。
彼女の恋人は、彼女が生まれることを知りました。
恋人は昼のあいだに仕事へ出て、夜になると必ず決まった時間に帰ってきました。
恋人は毎日のように花を買って帰ってきました。
彼女の好きな花でした。
彼女が辛く苦しいときは、体をよせて彼女を慰めました。
恋人はずっと彼女のそばにいました。
彼女は生まれることになってから、いろいろなことを思い出しました。
いろいろなことを。
ふと彼女は恋人に尋ねました。
「ねえ」
「私は天国に行くのかな、それとも地獄に行くのかな」
恋人は答えました。
「君次第さ」
彼女は少し笑いました。
彼女の体に大きな眠気がやってきました。
彼女はまどろみながら、眠気を抱いて目を閉じました。
そして夢を見ました。
暗くて狭い通路を進んでいく夢でした。
彼女は頭がねじれるような痛みに襲われました。
どんどん進んでいくと誰かの声が聞こえてきました。
彼女は光に包まれました。
あとがき
ミニマルで記号的なものを描こうと思ったところこうなりました。