約束

このあいだ、中学生が両親による虐待を苦に自殺したというニュースをネットで見かけた。最近こういうのをよく見かけるのはただ自分が無意識に目で追っているだけか。原因となった出来事はいくつもあると思うが、そのうちの一つとして、彼の両親曰く「約束を守らなかったから手をあげた」とのことらしい。その証言が妥当であるかどうかはさておき、約束という言葉は実に便利だ。いったん約束を当事者同士で履行してしまうと、それがいかに理不尽なものであっても正当性(のようなもの)を帯びてしまう。どんな不正も悪意ですらも「約束なんだから」の一言で相手に強いることができてしまうくらいには、約束という言葉は便利で、かつ恐ろしいものでもあるように思う。

例えば、仮に「門限は18時」という約束が親子の間で交わされていたとして、その日どうしても18時に帰れない用事があったとしても、鶴の一声で「約束と違う」と言われてしまえば、なんだか正しい感じがしてしまう。どれだけそれはおかしいと意義を唱えようが、一方が不履行を働いた瞬間に、もう一方にとって約束は盾にも矛にも変化可能となり、あまつさえ「約束を破られた者」として弱者のふりをすることすら可能になってしまう。「どんな理由であろうとも約束は約束」とか、「約束を破った上に口答えまでするのか」とか、「約束を破られたのはこっちなのに酷い」とか、身勝手な言い分が通ってしまうような雰囲気を作れてしまうのだ。むろんそんな言い分は本来成立しないのだけど。

自らの正当性を疑わない人間というのはどこにでもいるもので、そういう人間が約束という正当性を得てしまうと、よほどのことがない限り話は通じず、議論が平行線になることは想像に難くない。そういう場合は第三者や、それこそ児相に判断を託すべきなのだけど、未成熟な子どもがその結論に至るには難しい場合もあるし、今回の事件のように問題をシリアスに受け止めてもらえない場合もある。約束が結果として相手の弱みにつけいるようなものになるのなら、一方が極端に都合のいいように交わされるのなら、それを約束と呼ぶには明瞭を欠くだろう。命令や通達といった言葉を使ったほうが近い気がする。この件における約束という言葉の使い方をみて、気味の悪いものを感じざるを得なかった。

だけど、ネットの一角に落ちてたニュースだけでこの件の全容を理解できた気にはなれない。これ以上いたずらに自分の中の憶測を深めたくはないし、彼の両親を糾弾したいわけでもない。お互いの行き違いで起こり得ることだとも思う。ただこの件を通してぼくは、言葉が何かの皮を被ってしまい、その内にあるものを覆い隠してしまうことに対して、いちおう言葉を扱うもののはしくれとして、できるだけ敏感でいたいと思った。