記憶

いつの間にかポケットに自分のものではないライターやCDやアイフォンの充電器が入ってることがたまにあって、恐らく前日の夜に酔っ払った弾みで誰かからもらったものであるのは間違いないんだけど記憶にないので困ることがある。酩酊が過ぎて気がついたら築地市場のマグロと一緒に寝てましたなんて経験は自分にはないけれど、こうやって地味に思い出せない昨日の残滓が形として残ってしまうと、はたして自分は無事に夜を越えられたのだろうかと不安になることもある。忘れてしまいたいことほど強く憶えているのは自分の性癖なのか、人間そのものの基本装備なのかは知らない。傷つきまくって針飛びするレコードみたいに不自然になかったことにされたその記憶は、残ってないくらいなんだから楽しかった記憶なんだろうなと思う。落ち込んだり怒ったりしたときの気持ちは音楽にしてしまったらいい。確かにそう思いながら十数年音楽を作ってきたはいいが、今作っているもの、作らなければならないものと自分のバイオリズムとの整合性の取り方。未だにこれはあんまりよくわからんままだ。ということで右往左往しながら今これを書いている。

「大人になりたい」と願うのは子供の専売特許で、大人にはひっくり返っても出せないもので、そういうものは美しい。願えば願うほど、背伸びすればするほど、どこか可愛らしく滑稽な自分が浮き彫りになってしまうことに当人は気がつかない。気がつかないからこそ大人になりたいと願うのであって、およそ大人と子供の境界線があるとするなら、無知という青春を失った瞬間に大人になってしまうのかもしれんですね。そういう類はどうしても不可逆なもので、一度失えば二度と手に入らないので仕方がない。あるいは絵や音楽や言葉で何かを表現するというのは、形骸化してしまったあのころの背伸びをホルマリンに漬けて保管しておく行為なのかもしれない。自分はどうだろう。考えるのをやめる。

楽しい瞬間に楽しい人間の写真をバンバンとる人たちのことをどこか理解できない部分が昔はあったけど、彼らは青春に対して真摯に向き合い、また深く理解しているからこそ自分たちの刹那的な一分一秒を残そうとしているんだと最近気づきました。今年はそういうことをどんどんやってってもええかもしれん。形にして残す。ライター、CD、充電器。