手相占いにハマっているという友人の話をぼんやり聞いていたときのことを思い出す。
占いや性格診断という類のものに心を動かされた経験がほとんどなくて、飲みの席とかでやんわり盛り上がるための肴くらいに捉えていたんだけど、あなたはこういう人で、こういう人生を送ることになるでしょう、なんて統計的(?)情報をもとに、もっともらしく、唯一客観的な視点っぽく嘯かれると、何様だよと突っ撥ねたくなる反面、はあそうですか、それもそうですね、とすんなり納得してしまう自分もどこかにいる。Amazonで買い物したり、YouTubeで好きな音楽を聴いたりしてると、合間合間にあなたこういうのも好きでしょ?とインターネットにオススメされて、まんまと今の自分にフィットするものと出会ってしまうのがちょっと悔しくなったりもする反面、ありがてえな、ご苦労様、とも思ったり。こういう統計的な情報を基軸にして(占いが統計的なものなのかどうかは知らない)、今日の晩飯だとか、履いて出かける靴だとか、人生に大きく関わらない些細な選択を委ねるのも、それはそれで楽しいんじゃないかと思う自分を発見できるようになった。
諸説あるらしいが、物語の基本的な構造は6つくらいしかないと聞いたことがある。ふとそばを見渡してみても、これだけ多様な人間たちがいるのに6つって、近年信憑性のなさが囁かれて久しい血液型診断よりたった2つ多いだけじゃん、とか懐疑的に思ったりするんだけど、なるほど現代の自分がオフィーリアを見ていまだに心を痛めたりできるのは、人間が人間たる普遍的な部分に変わりようがないということで、大枠はだいたい同じことの繰り返しなのかもしれない。
歳をとるごとに知識と経験が増えて、うだうだしていた10代の頃に比べると、それなりに過不足なく生きることができるようになった。累積した体験の中から似たような過去のケースを引っ張ってきて、目の前の問題にこれどうっすか?と提示する。初めて出会った衝撃的な体験も、書物を引けばたいてい既になんらかの名前が付いていたりして、不学なもんだから知らなかっただけ。自分らがいま住んでるところには街の名前がついていて、その中に連続してきた物語があって、その物語の登場人物として生きていくことからは逃れられない。縛りつけるものを減らしてなるたけ自由に生きたいと願う一方で、生活は環境と習慣から生まれるルーチンワークにほとんどが回収されてしまうわけで、今の自由は自分の意思で手に入れました!と実感をもって主張できるかと言われるとちょっと怪しく思えるときもある。大きな情報によって統計的に趣味嗜好を解析されて、最短距離で自分の気分が決定してしまう暮らしの中で、はたしてどこに実感を担保して生きていくべきなのか。よちよち歩きでおろおろしながら生きる赤ちゃんみたいな自分らのために、物語の舞台があり、編集された脚本があり、既に退場した登場人物たちが残した祈りがあるのだとすれば、とっても贅沢だなと思う。
あるドラマを見ていたら、登場人物がナイフを手に取り「生命線を伸ばしてあげる」と告げながら相手の手のひらを切り付けようとするシーンがあって、それは飲みの席での「ほたえ」ではあったのだけど、手相が変われば人生も変わる、そういうことって有りうるのかしら?と結構真剣に考えてしまった。ほたえの途中でお命頂戴っつって斬撃を受けた手のひらを眺めて、伸びたなー寿命、と思えるのであれば、それはそれでじゃない?とか思う。やらないけど。痛そうだし。